ANMELDEN必要な時に呼び、必要がなければ黙る。 呼んでも、そこへ自分の気持ちを乗せない。 彼女がその名にどんな期待や喜びや失望を抱いていたか、考えもせずに。 今になって名を大切に思うことすら、彼女から見れば遅すぎるのだろう。 それでも、呼ばずにはいられなかった。 部屋へ戻って扉を閉めると、客室の静けさがまた彼を包んだ。暖炉の残り火はさらに小さくなり、窓の向こうは夜の最も深いところへ沈みつつある。ヴィルレオは机の前に立ち、何とはなしに一枚の紙を引き寄せた。 書くつもりなどなかった。 けれど気づけば、ペン先は勝手に動いていた。 リュゼリア。 紙の上へ、ただその名だけが落ちる。 業務のためでも、返書の宛名でもない。ただ彼女の名を書いたことなど、これまで一度もなかった気がした。書いてしまってから、その文字がやけに生々しく見えて、ヴィルレオはしばらく手を止める。 細い字ではない。彼の字はもともと鋭く、隙がない。だからこそ、その硬い筆跡で綴られた彼女の名が、妙に不器用に見えた。 指先でそっとその字をなぞる。 リュゼリア。 声にしても、書いても、結局行き着くところは同じだった。彼女という存在を考える時、もうそれは役目でも責任でも片づけられない場所へ落ちている。 ヴィルレオは紙を折らず、燃やしもせず、そのまま机へ伏せた。 誰かに見せるものではない。ただ、今夜の自分が何に名前をつけたのかを、せめて自分だけは忘れぬための印のようなものだった。 再び寝台へ横になる。 先ほどまでよりも、呼吸は少しだけ深い。眠気が来たわけではない。けれど、名もない熱に振り回されていた時よりは、苦しさの向きが定まった気がした。 愛している。 その言葉をまた胸の中で繰り返す。 すると今度は、その言葉のあとに彼女の名が続くのが自然だった。 愛している、リュゼリア。 あまりにも遅く、あまりにも届かぬ場所で育ってしまった想いだとしても、それでも確かに彼の中へ根を下ろしている。 眠れない夜にも、ようやく名前がついた。 それは後悔だけの夜ではない。 喪失だけの夜でもない。 彼女の名を何度も呼びながら、ようやく自分の想いの形を知った夜なのだと、ヴィルレオは静かに思った。 遠くで、まだ朝には早い鳥が一声だけ鳴いた。 夜がゆっくり薄れていく気配がある。完全な眠りには落ちなくて
ヴィルレオは眉間へ指を当てた。 愛している。 その言葉がまだ少しだけ重いのは、そこに必ず後悔が混ざるからだろう。純粋な愛などではないのかもしれない、と一瞬思う。もっと泥に近い。遅れ、執着し、失う恐怖に駆られ、ようやく形を得た感情だ。 けれど、だからといって愛ではないとは言えない。 彼女の不在が屋敷を狂わせるから愛なのではない。 彼女が自分を支えていたから愛なのでもない。 そんな理由を抜きにして、彼女がいまここで眠っていること、少しずつ息をしやすくしていること、明日どんな顔で花を見るか、その一つひとつに胸が動く。 その動きに、もう別の名前を当てはめることはできなかった。 愛しているのだ、と不意に思った。 その言葉は、昨夜までならまだ胸の内で輪郭を持たなかった。愛、執着、責任、後悔。そのどれもが混ざり、どれも言い切れずにいた。けれど、今こうして彼女の名だけを小さく呼んでいると、そのどれとも少し違う熱の在処がわかる。 彼女の不在に屋敷の呼吸が狂うからではない。 彼女に支えられていたと今さら知ったからでもない。 もちろんそれらもある。だが、それだけならこんなふうに夜の廊下で、扉越しに名を呼んだりはしない。 彼女の息の浅さに胸が痛む。 笑うと安心し、遠くなると怖くなる。 土に触れて少しだけ柔らかくなった顔を見て、理由もなくほっとする。 咳き込めば喉の奥がつらくなり、花のことを話す横顔を見るだけで、明日もう少しだけ咲くだろうと思いながら一日を終えたくなる。 そういうものの名前は、たぶん、愛なのだ。 遅すぎるとわかっている。 あまりにも遅い。彼女が欲しかった時間の中には、これはなかった。今になって自分がそれを認めたところで、彼女が失ったものは戻らない。謝罪にもならず、埋め合わせにもならず、ただ自分の中で遅れて芽吹いただけの感情だ。 それでも、もうそれを否定はできない。 ヴィルレオはゆっくりと息を吸った。 冷たい夜の空気が肺へ入る。扉の向こうからは何も聞こえない。だがそこに彼女が眠っていると知っているだけで、自分の呼吸まで少し変わるような気がした。「……愛している」 声にしたのは、ほとんど無意識だった。 あまりにも小さく、扉一枚どころか、自分の胸の内にしか響かないような声。けれど、その一言を口にした瞬間、何かが逃げられぬ形で自分
リュゼリア。 彼女の名は、もともと美しい響きだと思っていた。音の流れも、字面も、貴族の娘としてふさわしい品を持っている。だから結婚後も、必要があればそう呼んだ。だがその呼び方は、いつもどこか書類の上の名前に近かった。夫が妻を、家名と地位の中で指し示すための呼び方。 今、夜更けの廊下で小さく呼んだその名は、初めて全く違うものに聞こえた。 リュゼリア。 それは肩書きでも役目でもない。ただ、あの細い女の体温や視線や、土に触れた指先や、食卓で静かにカップを持ち上げる所作や、何も急がなくていい朝に少し戸惑う顔や、咳のあとに息を整える横顔、そういう全部をひとつに束ねた名前だった。 そして、名を呼ぶたびに、これまでの記憶が妙にばらばらなまま浮かんでは沈んだ。 結婚式の日、白い花の匂いの中で、儀礼の一部のように彼女の名を呼んだこと。 王城から戻った夜、食堂で向かい合いながら、必要な返書の確認だけをして、「リュゼリア」と短く呼んだこと。 体調を崩し始めてから、侍女の前で「リュゼリア、座れ」と命じるように言ったこと。 どれも間違ってはいない。どれも夫として、屋敷の主として、必要な場面だったのだろう。だが今思えば、そのどれ一つとして、彼女その人へ届く呼び方ではなかった。 名前を呼んでいたのに、呼びかけてはいなかった。 そう気づいた瞬間、胸の内で何かがゆっくり捩れる。 彼女はいつも、自分の呼び方ひとつで表情をわずかに変えていたのかもしれない。王都の長い廊下で。食堂の静かな灯りの下で。夜更けの寝室で。ほんの少しだけ目を上げ、あるいは小さく笑い、またすぐ何でもない顔へ戻っていたのかもしれない。 だが、自分はその小さな変化を何一つ受け取らなかった。 今になって思い出せるのは、彼女が時折、自分の名前を呼ぶ前にほんの半拍だけ息を置いていたことくらいだ。 旦那様。 あるいは、ごく稀に、誰もいないところで低く「ヴィルレオ様」と呼んだこともあったかもしれない。その響きが耳へ残っているのに、それがどんな顔で向けられていたのか、自分はほとんど覚えていない。 覚えていないことが、たまらなく苦い。 ヴィルレオはもう一度、壁へ背を預けたまま、低く名を呼んだ。「リュゼリア」 今度はさっきより少しだけはっきりと、音の一つひとつを確かめるように。 すると、その名は不思議なほど
◇ 客室を出ると、廊下はさらに静かだった。 燭台の火は小さく、壁に落ちる影だけが長い。館そのものが深く眠っている気配がある。王都の本邸の夜とは違う。向こうでは、どれほど夜更けでも完全な沈黙はなかった。遠い場所で必ず誰かが動き、屋敷が生き物のように微かに呼吸していた。 ここでは、違う。 眠るべきものは眠り、静まるべきものは静まり、ただ風と水と火の名残だけが館の骨組みに残っている。 ヴィルレオはその静けさに導かれるように、足を進めた。 どこへ向かうのか、自分でも半ばわかっていた。 西側の回廊。 リュゼリアの寝室へ続く廊下。 その扉の前まで来て、ようやく足を止める。 内側に灯りはない。もう寝ているのだろう。熱は少し落ち着いたとはいえ、夜更けまで起こしてよいはずもない。扉を叩く理由など何一つなかった。 それなのに、ここまで来てしまった。 扉一枚隔てた向こうに、彼女がいる。 息をして、眠って、時折咳き込み、アイダに水を飲まされ、また目を閉じているのだろう。そういう想像が、やけに具体的で、やけに胸を締めつけた。 ヴィルレオは扉に手をかけないまま、壁へ背を預ける。 こうしている自分を、誰かが見たら滑稽だと思うだろう。 大公爵が夜更けに客室を抜け出し、妻の寝室の前で何もできず立ち尽くしている。 だが、今は滑稽であることすらどうでもよかった。 彼女に触れたいと思う。 その手を取ってしまいたいと思う。 熱のある額に触れ、冷えた指先を包み、咳き込んだあとに乱れた呼吸が落ち着くまで背を支えていたいと思う。 そういう衝動が、もう言い逃れのできないほど確かにある。 それでも扉を開けないのは、彼女に拒まれるのが怖いからではない。もちろんそれもある。だが、もっと根本にあるのは、そこへ手を伸ばすだけの時間を、自分が彼女と積んでこなかったとわかっているからだ。 夫だから許されるというのなら、世の中はもっと簡単だっただろう。 だが彼女ははっきり言った。 いきなり触れようとなさると、お互いに戸惑うのよ。 その戸惑いを生むのは、自分が彼女の苦しみ方を知らないからだと。 知らない。 本当にそうだった。 咳のあと、どれくらい待てば息が整うのか。水はすぐ差し出したほうがいいのか、それとも少し置いたほうがいいのか。熱が上がる前に指先がどんなふうに
その夜、ヴィルレオはとうとう一睡もできなかった。 東側の客室は静かだった。静かすぎた、と言ってもいい。暖炉の火は弱められ、橙色の残り火だけが炉の奥でゆっくりと明滅している。厚い絨毯は足音を飲み込み、閉じた窓の向こうでは湖からの風が時折かすかに鳴る。天井は高くも低くもなく、寝台は広く、掛布は重すぎず軽すぎず、客人が休むには申し分のない部屋だった。 なのに、まぶたを閉じるたびに胸の奥だけが冴えていく。 昼に見た彼女の細い指先。 風にずれた外套の襟。 自分が伸ばしかけて、途中で止めた手。 夜の寝台の中で、熱の残る声で言われた「あなたは、まだ、わたくしの苦しみ方を知らないのよ」という静かな言葉。 そのどれもが、目を閉じると余計にはっきりした輪郭で蘇る。 眠れないのは、考えすぎているからだと最初は思った。王都を出る直前からずっとそうだった。帳簿や社交台帳や侍女の配置や、彼女が整えていた無数の細部を見せつけられ、遅すぎる気づきに胸を抉られ、謝ろうとしても謝罪にならず、ようやく差し出そうとした未来を「今さら遅いのです」と静かに断たれた。 それだけあれば、眠れぬ理由としては十分すぎる。 だが、今夜の眠れなさは少し違っていた。 ただ苦しいのではない。 ただ後悔しているのでもない。 胸の奥に、名前のついていない熱があり、それが消えないまま静かに燃え続けている。 ヴィルレオは寝台の上で何度目かの寝返りを打ち、それから諦めたように起き上がった。掛布をはねのける。足が床へ触れると、夜の冷えが足裏から上がってきた。その冷たさが、かえって少しだけ頭を冷やした。 燭台に火を足すほどでもない。部屋の薄闇の中、ヴィルレオは窓辺まで歩き、カーテンを少しだけ開けた。 庭は黒く沈んでいた。昼に見た白と青の花壇も、今はほとんど影と見分けがつかない。ただ、月が雲の合間からわずかに顔を出すたび、湿った土のあたりだけが鈍く光る。花がそこにあることは知っている。見えなくても、そこにあると知っているものは、不思議なほど強く意識を引いた。 彼女も、そうだったのかもしれないと、ふと思う。 王都の長い屋敷の中で、食卓でも廊下でも寝室でも、彼女はずっと自分をそういうふうに見ていたのだろうか。見えなくても、届かなくても、そこにあるものとして。朝も夜も、自分の機嫌も疲れも食の進み具合も、まる
リュゼリアは少しだけ目を瞬かせた。意外だったのだろう。彼がそんなふうに、自分の無力をそのまま口にするのは珍しい。「旦那様」「医師のほうが、正しい」「ええ」「アイダのほうが、お前の呼吸を知っている」「ええ」「俺は」 そこで言葉が止まる。続きは簡単だったはずなのに、喉の奥で妙に重かった。「俺は、何もする資格がない」 リュゼリアはしばらく黙っていた。 そして、ゆっくりと首を振る。「資格がない、という言い方は少し違うわ」 その返答が意外で、ヴィルレオは思わず顔を上げる。「違う?」「ええ」 熱のあるせいか、声はかすかに掠れている。それでも響きは穏やかだった。「資格がないというより、旦那様は……まだ、わたくしの苦しみ方を知らないのよ」 その言葉は、どこか静かな慈悲を含んでいた。「苦しみ方?」「ええ。咳のあと、どれくらい待てば落ち着くのか。水はすぐのほうがいい時と、少し置いたほうがいい時があること。熱が上がる前に指先がどう冷たくなるか。そういう、小さなこと」 リュゼリアは細い息を吐く。「それは、一緒にいる時間の中でしかわからないものだから」 時間。 またその言葉だ、とヴィルレオは思う。 失った時間。 届かない謝罪。 今さら遅いのです。 そして今、彼女はまた時間のことを言う。「だから」 リュゼリアは小さく目を伏せた。「いきなり触れようとなさると、お互いに戸惑うのよ」 責めるのではなく、説明するような声だった。 その説明のしかたが、かえって痛い。 彼女はもう怒ってもいない。ただ、自分と彼のあいだに何が足りないのかを、静かに言葉にしているだけなのだ。「……そうか」 ヴィルレオは低く答えた。 そうだ。 彼は彼女の苦しみ方を知らない。咳の音を聞いたことはある。熱に浮かされる顔も見た。だが、それは断片だ。断片を見て、知ったつもりでいただけだ。本当には何も知らなかった。だから、今さら手を伸ばしても、その手はいつも少し遅く、少し強すぎる。 何もできないのではない。 何をすればよいか、まだ知らないのだ。 そして知るためには、彼女が許す距離で、許す速さのまま、時間を積むしかない。 その時間さえ与えられる保証はない。 けれど、資格がないと自分を切り捨てて立ち去ることもまた、彼女の言葉を聞かずに結論を出すことになるの